二つの殿堂入り
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の俳句で有名な明治時代を代表する文学史、正岡子規は1867年に愛媛県松山市に生まれた。野球好きで知られていて、2002年に野球殿堂入りを果たした。
子規は囲碁も好きで詠んだ碁の俳句の数は30を超える。その功績が称えられて生誕150年の2017年には第14回囲碁殿堂入りを果たした。
26歳で上京し、28歳からは現在の台東区根岸にある子規庵で過ごした。子規30歳の1897年には俳句雑誌「ホトトギス」を創刊した。20代前半に当時の不治の病である結核と医師につげられた子規は血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスに自分を重ねた。1902年に死去。
正岡子規の碁の俳句1
淋しげに柿食ふは碁を知らざらん
(さびしげに かきくうはごを しらざらん)
正岡子規の碁の俳句2
涼しさや雲に碁を打つ人二人
(すずしさや くもにごをうつ ひとふたり)
正岡子規の碁の俳句3
下手の碁の四隅かためる日永哉
(へたのごの よすみかためる ひながかな)
日永という言葉からのどかな感じが伝わってくる。春の終わりから夏の初めだろう。「四隅取られて碁を打つな」という格言を忠実に守っている子規。碁が上達してくると格言や定石にはとらわれないで状況ごとに臨機応変に打つようになっていくものだが、そうではないようだということがこの句から読み取れる。
新聞「日本」の社長で、正岡子規の後継者である陸羯南と打っていた碁だと想像すると面白い、と観戦記者歴45年の囲碁ライター、秋山賢司は言う。ちなみに、陸羯南の読みは「くがかつなん」で1857年に生誕、1907年に死去。
随筆によると陸羯南は普通の棋力の人に星目のハンデをもらってもたくさん負けてしまうぐらいだったらしい。正岡子規と陸羯南は囲碁でいい勝負で、棋力は相当弱く5、6級以下だっただろう、と秋山は推測する。
正岡子規の碁の俳句4
昼人なし 碁盤に桐の 影動く
(ひるひとなし ごばんにきりの かげうごく)
無人の家の縁側の近くに置いてある碁盤が想像できる。その碁盤の上に桐の影が映る。真夏の昼下がりだろうか。淋しい句。
正岡子規の碁の俳句5
真中に 碁盤据えたる 毛布かな
(まんなかに ごばんすえたる もうふかな)
正岡子規が相当体が悪くなってから作った句。晩年の33歳か34歳だろう。
毛布の真ん中に置いた、病人でも簡単にもてる紙の碁盤と土の碁石を使って自分で碁を研究していたことが伺える。
土の碁石は土を固めて簡単に焼いて安い塗料をぬったもので、少し風がふいたらサッと飛ばされてしまうことが少なくなかった。安くて軽い現代のプラスチック碁石のよう。紙の碁盤と土の碁石は江戸時代から存在し、昭和30年ぐらいまで販売されていた。
正岡子規の碁の漢詩
子規が17歳のころに書いた囲棋行(いきこう)という漢詩がある。同級生で同郷の俳人である柳原極堂と碁を打ったことが延々と書かれている。碁を詠んだ漢詩の中では日本で一番長い。
囲棋行の一節
共に楸枰(しゅうへい)に対し静かに石を下す。
楸枰は碁盤のこと。両対局者が盤面に向かい、碁に集中して打っていることがわかる一節。