本因坊秀和(ほんいんぼう しゅうわ)

囲碁棋士

2016年2月の囲碁フォーカスで特集された。

生い立ちなど

静岡県伊豆市で1820年に生まれる。1873年に死去。2006年に囲碁殿堂入りを果たす。

生家のすぐ隣にある最福寺(さいふくじ)には170周年を記念して建てられた顕彰碑がある。

ちなみに最福寺の近くには有名な土肥(とい)温泉がある。

棋風

攻めを受けて相手の裏をとる棋風の秀和。早打ちだったという秀和がずばぬけていたのは、ものすごく早い段階からの形勢判断力、計算力、そして先を見通す力。

相手の攻撃を全て受けきっても最終的には間に合っている。コミがない時代に白番で秀和のように打てる人はまずいない。

自信に裏づけされた気持ちの強さは誰にもまねできない。弟子の本因坊秀甫(しゅうほ)は、普通の人はこうはうまくいかない、と秀和の打ちまわしに脱帽だったという。

対局例

  • 1842年2月18日(詳細ページ
    黒 伊藤松次郎 六段
    白 本因坊秀和 七段
    手合い割り:先
  • 1844年4月2日(詳細ページ
    黒 太田雄蔵
    白 本因坊秀和
    手合い割り:先相先

逸話

秀和が九歳のときの話。地元の囲碁の名士と縁側で対局することになった。

相手が長考に入ったのでまだ子供の秀和は近くに柿をとりにいった。

秀和が席を外している間にちょっとごまかして形勢を有利にしてやろうと盤面上の石数個をずらしたところ、帰ってきた秀和はそれに簡単に気付く。

ずるをするとは何事かと盤上の石をかき混ぜて、その場を去ろうとする秀和だが、食い下がり再対局を申し込む地元の囲碁の名士。

どうしてもというなら仕方ないと思う秀和はずるをする手前までの盤面を確実な記憶力ですぐに元に戻した。

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